2011年3月6日

オールアウト

最近オールアウトしていません。


オールアウトとは、筋肉を完全燃焼させる事で、限界まで追い込み、文字通りヘトヘトにならなければ意味を成しません。

ひとりでちょいちょいジムに行き、ちゃちゃっと高重量を上げて帰るような今の貧弱筋トレでは、微かな自己満足に浸ることは出来ても、本当の意味での究極の幸せは決して得られるとは思えません。


5年前の日記を読みました。

オールアウトの意味を知り、自分の未熟さを知り、よくうずくまって吐くまで筋トレしたものです。
筋トレの正しいやり方こそ今の方がよく分かっていて、効果的に筋肉を体に反映させることは出来ます。でも、その青臭くてきれいな精神論は、今の私のご都合主義的な筋トレでは絶対に太刀打ち出来ません。
少しだけ大局が見え、効果的に結果を残せるようになってきた自分の体は、表面的な筋力はあれど、自分的に決してかっこよくなく、結果が出なくても泥臭くもがいていたあの頃の筋肉の方がきっと味があったと思います。

3月は、毎年私の筋肉への熱意を思い出させてくれます。
なぜだか分かりませんが、そういう不思議な力が3月にはあるようです。
私が筋トレで具合を悪くしたのも、去年の3月が最後です。
勤務先のトイレでうずくまり、星が舞い、ああ、死ぬかも、アフリカでこれは大丈夫かいな、と思った記憶があります。

今の私は、自分を守り、お酒、体力、色んな事を言い訳にして筋肉を後回し。それでも筋力を保つ表面的なスキルだけは手に入れてしまいました。
あの情熱、あのテストステロンは何処に忘れてきたのでしょうか。

さらりと切り抜ける事は少しだけ覚えました。
悩みぬくよりきっと効果的で、きっと論理的で、きっと合理的です。
ロジカルに答えが出せることはもちろん素晴らしい事ですが、感情的で情緒的な、不安定な泥臭いパフォーマンスの美しさは、何事にも替え難い魅力があるのだろうと思います。
いつも熱闘甲子園で泣いてしまうのは、プロ野球にはない不安定さが人を惹きつけるからなのだと思います。


筋肉は嘘をつきません。

即効性のあるトレーニングが出来るようになってきたのも、私の今までの努力の一つだと思います。
しかし、そのやり方に疑問を感じ始めたのも私の生き方の一つなのだと思います。

そういう意味での、オールアウト。
オーバーワーク自体にはもちろん意味がありません。頑張れば報われるのなら、筋肉なんて誰でも簡単につけることが出来ます。
でもオーバーワークを経験する意味はきっとあるような気がします。
そこで得られる充実感と、そこで得られない結果とのギャップに苦しむ過程は経験しないと絶対に分からないことだと思います。


筋肉は嘘をつきません。

人生も嘘をつきません。


筋肉は一日にして成りません。

人生も一日にして成りません。

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